回想

1988年10月、 26歳の私はまだ壁があったベルリンにブリティッシュエアで降り立った。

当時はドイツのルフトハンザ航空は西ベルリンには飛んでいなく、そのほかは戦勝国のアメリカのパンナム、フランスのエールフランスがこの地に向け飛ぶ事ができる航空会社として限定されている時代だった。今から思えばまるで、スクリーンに映し出さるような異時代の出来事のようにも思える。

当時の私は兎に角、ドイツの一流のピアノ製作現場で経験を積みたい。と言う思いが堰を切ったように明けても暮れても頭によぎっていた。

ピアノの技術者として当時の私の立ち位置と違うステージに行くのに、ヨーロッパの一流ピアノメーカーでの体験が必要だということが、普段の仕事の中でしばしば対峙する、精度や効率性とは異なった音楽の本質的な問に対し、結論のように出てきた。

当時の多いとは到底言えない給与からなんとか学費を捻出し、仕事が終わった後、代々木にあったドイツ語学校に通い、NHKのドイツ語講座をテープに録音し、ウオークマンで聴きながら受験生のように毎日電車の中で単語帳を睨む、という生活をスタートさせて丁度一年が経過した頃だった。

華やかさとは対照的なクロイツベルク地区にある、前世紀を感じるレンガ作りのベヒシュタイン工場に朝7 時前に入った。

その時間にはもう、工場の中は接着で使用する膠の匂いと木材の匂いが漂っていた。

西ドイツで西ベルリンに来る前に訪問したピアノメーカーとは異なった、堅塞固塁な印象さえ受ける、自分がイメージしていたドイツらしさそのものだった。

レンガ造りの工場の中央には中庭があり、そこに面した窓から差し込む自然光の中で、ピアノの組み立てが行われていた。

https://www.deutsche-digitale-bibliothek.de/item/W6GUHLXAOZCINLM77JD3JRUBHROHDVJ5

レンガ造りの工場の中で聞こえるピアノの響きは、J. BoletやMichelangeli の録音で聞く響きと同じだった。

工場を見学し、一通りの作業をMeisterに見てもらい、工場長には調律を見てもらった。

感覚的でありながらも論理的な評価の一つ一つが心に響いた。

良し悪しの判断には常に音楽的なバックグラウンドがあり、響きについて言えば、ドイツ語の発音そのものがピアノの音に求められているように感じた。

ピアノという楽器はヨーロッパで完成したものだ。という当たり前のことを提示された時は、ベヒシュタインの職人の一人に

「オレタチノブンカヲ ベンキョウニキテクレ アリガトウ」

の一言だった。

シーズンに入ったベルリンフィルでは、ポリーニのリサイタルとアシュケナージのピアノコンチェルトを滞在中鑑賞することができ、ピアノの響きの可能性に心から感動した。

二週間が過ぎ、その結果自分の中に出た答えは、自分はまだまだ未熟でドイツに引越してピアノ製作実務をしなければならない。だった。

この約8ヶ月後の89年6月、周りの人の迷惑を顧みず私はドイツへ引越すことになった。

(加藤 正人)

C.BECHSTEIN

リストやドビュッシー、ビューローなど偉大な音楽家に インスピレーションを与え続けてきた、世界の3大ピアノメーカーの1つ、 ベヒシュタイン。 そのパフォーマンス・芸術性について、ベヒシュタイン・ジャパンの スペシャリストが、公式サイトには載せない、ここだけの話しをお届けします。

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